ウーブリエット
忘却の地下牢:身動き取れない極小空間で迎える緩慢な死
中世ヨーロッパにおけるもっとも恐ろしい死に方とは、暗闇の底で、身動き一つ取れず、立つことも横になることもできず、そのままの姿勢で数週間を過ごし、上方から漏れ聞こえる日常の音を聞きながら、緩慢に息絶えていくことだろう——少なくとも、そう信じられている。
この恐怖の空間は「ウーブリエット(Oubliette)」と呼ばれる。フランス語の「oublier(忘れる)」に由来するこの言葉は、「忘却の場所」を意味する。一度投げ込まれた者は、永遠に忘却の彼方へと追いやられる。しかし、この恐怖の空間は、本当に存在したのだろうか。観光地で語られる血塗られた伝説は、歴史の真実なのか、それとも後世が作り上げた物語なのか。この問いに答えるためには、まず、この語がどのように生まれ、どのように変遷してきたかを理解する必要がある。「ウーブリエット」という語のフランス語における初出は1374年にまで遡るとされるが、中世当時にこの言葉が、現代我々が想像するような「特定の拷問用地下牢」を指していたという証拠は乏しい。むしろ、中世の文献において城の地下牢は単に「ダンジョン(dungeon)」や「牢(prison)」、「穴(pit)」と呼ばれていた。
英語圏においてこの語が広く認知されるようになったのは、19世紀初頭の文学作品を通じてである。特にウォルター・スコットの歴史小説『アイヴァンホー(Ivanhoe)』(1819年)における使用が決定的であった。スコットは作中で、「場所は完全に暗かった——恐らくは彼らの忌まわしい修道院のウーブリエットであろう」と記述し、この語に「脱出不可能な死の地下室」という強烈なゴシック的イメージを付与した。ここにおいて、ウーブリエットは単なる物理的な空間から、封建制度の非人道性を象徴する文学的トポス(場所)へと昇華されたのである。
興味深いのは、英語の「dungeon(地下牢)」とフランス語の「donjon(主塔、キープ)」の関係である。これは、建築史における最も有名な「偽の友(false friends)」の一つである。Donjonはラテン語のdominus(主、支配者)に由来し、城主の住居兼最終防衛拠点である「主塔」を指す。これは城内で最も安全で高貴な空間であった。しかし、時間の経過とともに、主塔の地下空間が囚人の収容に使われるようになったことから、英語圏では「暗い地下牢」そのものを指す言葉へと意味が変質した。この意味の逆転と混同が、後に「主塔の地下には必ず恐ろしいウーブリエットがある」という固定観念を形成する土壌となった。
この恐怖の空間の典型例として、イングランドのワーウィック城にあるシーザーズ・タワーの地下牢が挙げられる。この城の地下牢は、長らく典型的なウーブリエットとして紹介されてきた。観光客は、天井の鉄格子から覗き込む。その下には、極めて狭い空間が広がっている。立つことも横になることもできないその空間を見た瞬間、多くの観光客は背筋に冷たいものを感じる。そこで身動きも取れずに死んでいった囚人を想像し、戦慄するのだ。もしあなたがこの空間に閉じ込められたとしたら、何が起きるだろうか。最初の数時間は、まだ希望があるかもしれない。しかし、時間が経つにつれて、その希望は絶望に変わる。上方から漏れ聞こえる人々の声は、あなたが世界から切り離されていることを痛感させる。時間と空間の感覚は失われる。何日経ったのか、何週間経ったのか、わからなくなる。この狭い空間が、世界のすべてになる。この空間の恐ろしさは、肉体的な苦痛ではなく、心理的な苦痛にある。串刺しにされるような即座の苦痛ではなく、緩慢な、しかし確実な絶望。それが、この空間の本質である——少なくとも、そう信じられている。
ワーウィック城の心理的拷問とは異なる、もう一つの恐怖の典型が、フランス革命の象徴であるバスティーユ牢獄にある。この牢獄の地下牢は、ヴィクトル・ユーゴーによって「人間を苦しめるために設計された完璧な装置」と描写された。19世紀の建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク(Viollet-le-Duc)が描いた図面には、逆円錐形の底を持つ地下室が描かれている。この構造は、ワーウィック城の極小空間とは異なる、別の種類の恐怖を生み出す。もしあなたがこの空間に閉じ込められたとしたら、何が起きるだろうか。床は逆円錐形をしている。中央が最も低く、周囲に向かって傾斜しているため、立つことも横になることも、座ることもできない。中央に立とうとすれば足を滑らせ、横になろうとすれば体が滑り落ちる。囚人は、常に不安定な状態に置かれ、体のどこかが常に痛む。それは、肉体的な苦痛と心理的な苦痛を同時に与える、完璧な装置だった——少なくとも、そう信じられている。
ヴィクトル・ユーゴーは、この構造を「人間を苦しめるために設計された完璧な装置」として描写した。彼の小説『レ・ミゼラブル』では、バスティーユの地下牢が、アンシャン・レジームの非人道性を象徴する空間として描かれている。逆円錐形の床は、人間の自然な姿勢をすべて否定し、単なる監禁ではなく、人間の尊厳そのものを奪う装置だった。アンシャン・レジームの恐怖の象徴として、バスティーユのウーブリエットは語り継がれてきた。革命の嵐が吹き荒れた1789年、この牢獄は民衆によって破壊されたが、その恐怖の記憶は、19世紀のロマン主義者たちによって、さらに増幅されていった。
ワーウィック城とバスティーユとは異なる、もう一つの恐怖の典型が、アイルランド・オファリー州に位置するリープ城(Leap Castle)にある。この城は「世界で最も呪われた城」と称され、その恐怖の中核には「血の礼拝堂(Bloody Chapel)」とその隠し部屋が存在する。ただし、リープ城の伝説は、串刺しという肉体的な苦痛に焦点を当てているが、ワーウィック城のような心理的拷問や、バスティーユのような設計された苦痛とは異なる性質を持っている。
リープ城の歴史は、15世紀から17世紀にかけてこの地を支配したオキャロル(O’Carroll)一族の血塗られた抗争史と不可分である。1532年、ムルルーニー・オキャロルが死去した後、一族内で激しい後継者争いが勃発した。ある日、司祭であった兄(サディアスとされる)が城内の礼拝堂でミサを行っている最中、対立する兄弟(ティーゲとされる)が乱入した。祭壇の前で、兄弟は兄弟を剣で刺殺した。瀕死の司祭が祭壇に倒れ込み、神聖な場所を血で汚したことから、この部屋は「血の礼拝堂」と呼ばれるようになった。オキャロル家の残虐性を物語るもう一つの主要な伝承は、傭兵の大量虐殺に関するものである。彼らは近隣のマクマホン(McMahon)氏族やオニール(O’Neil)氏族などを傭兵として雇い、敵対勢力を排除させた。しかし、報酬の支払いを免れるために、彼らを城の祝宴に招待した。そして、酒と食事に毒を盛るか、あるいは就寝中に襲撃して全員を殺害したと伝えられている。殺害された傭兵たちの遺体は、礼拝堂の北東の隅にある小さな隠し部屋、すなわちウーブリエットに次々と投げ込まれたという。
リープ城のウーブリエット伝説が決定的な「事実」として現代に定着する契機となったのは、1922年の出来事である。アイルランド内戦の混乱の中、城はIRA(アイルランド共和軍)によって焼き討ちにされ、廃墟と化した。その後の清掃作業中、作業員の一人が礼拝堂の壁の背後に異様な空間を発見した。彼は、壁の隙間から冷たい空気が流れ出していることに気づき、その背後に隠された空間の存在を疑った。壁を慎重に調べた結果、隠し扉のような構造を発見した。彼は懐中電灯を取り出し、その光を暗闇に差し向けた。光が暗闇を切り裂いた瞬間、彼の目に映ったものは、おびただしい数の人骨が堆積した光景だった。骨は、狭いボトルネック型の地下室の底に、何層にもわたって積み重ねられていた。その量は、取り除くために「荷車3台分(three cartloads)」を要したという衝撃的な報告がなされた。作業員は、この発見に強い衝撃を受け、恐怖と困惑を覚えた。しかし、この感情が、後世の解釈にどのような影響を与えたかは、慎重に検討する必要がある——少なくとも、そう語り継がれている。さらに、この発見を決定的に恐ろしいものにしたのは、ウーブリエットの底に設置されていたとされる「スパイク」の存在である。伝承によれば、約8フィート(約2.4メートル)下の床には、上向きに尖らせた木製の串が林立しており、落下した犠牲者は即死することなく串刺しになり、その肺を貫かれながら、上方の落とし戸から漏れ聞こえる宴の音を聞きつつ、緩慢な死を迎えたとされている。発見された遺物の中には1840年代の懐中時計も含まれていたとされ、この残酷な処刑法が中世のみならず、19世紀中頃まで密かに行われていた可能性を示唆する証拠として、怪談の信憑性を補強している。
リープ城の恐怖を語る上で欠かせないのが、19世紀末から20世紀初頭にかけて城主夫人であったミルドレッド・ダービー(Mildred Darby)の存在である。彼女は「アンドリュー・メリー(Andrew Merry)」というペンネームでゴシック小説を執筆しており、オカルトに深く傾倒していた。ミルドレッドは城内で頻繁に降霊会(séance)を行い、その結果、城に眠る邪悪な霊を目覚めさせてしまったと信じられている。彼女が1909年の『Occult Review』誌に寄稿した体験談によれば、彼女は「エレメンタル(Elemental)」と呼ばれる正体不明の精霊に遭遇した。彼女の描写によれば、それは「羊ほどの大きさ」で、「腐敗した死体のような強烈な悪臭」を放ち、「人間のようで人間ではない、唾液を垂れ流す顎を持つ顔」をしていたという。この「エレメンタル」はウーブリエットの発見と結び付けられ、そこに蓄積された死と苦痛が凝縮して生まれた怪物であると解釈されるようになった。
しかし、考古学者たちは首を横に振る。なぜなら、この恐ろしい物語の多くは、実は19世紀のロマン主義が作り上げた神話かもしれないからだ。19世紀のロマン主義者たち(スコット、ユーゴー、ヴィオレ=ル=デュクら)は、自分たちの生きる「理性の時代」と対比させるために、中世を「野蛮で暗黒の時代」として再構築する必要があった。ウーブリエットは、封建領主の恣意的な権力と残虐性を象徴する舞台装置として、文学的に「発明」された側面が強い。ゴシック・リバイバル(ゴシック復興様式)の流行とともに、観光業もこの恐怖の物語を利用し始めた。ダークツーリズムの誕生である。観光地化された古城において、「ウーブリエット」として展示されている穴の多くは、実際にはただの衛生設備や貯蔵庫である可能性が高いことが、近年の考古学的調査によって指摘されている。
現代の歴史学および建築考古学の厳密なメスを入れたとき、この「究極の監禁装置」の正体は劇的な変貌を遂げる。詳細な建築調査は、このロマンチックな解釈を否定する。ワーウィック城の極小の空間は、実際には上層階から続く下水シャフト(竪坑)の終端部であり、より大きな地下の空間(cesspit)へと接続されている構造の一部であることが判明している。中世の城郭建築において、排泄物処理(Sanitation)は防御と同様に重要な課題であった。トイレは「ガードローブ(garderobe)」と呼ばれ、排泄物は壁の外へ直接落下させるか、壁内部のシャフトを通じて地下の浄化槽へ集められた。ワーウィック城のいわゆるウーブリエットは、このガードローブのシャフトが部分的に埋め戻された、あるいは改造されたものであり、その狭さは人間を閉じ込めるためではなく、単なる配管スペースとしての制約によるものである。つまり、観光客が恐怖を感じるその空間は、実は中世のトイレの排水溝だったのだ。中世のトイレと地下空間の関係を示す悲劇的な実例として、1184年の「エルフルトの肥溜め事故(Erfurt latrine disaster)」が挙げられる。神聖ローマ帝国の貴族たちが集まった会議場の床が抜け、多数の貴族が階下の巨大な汚水槽に落下し、溺死または窒息死した事件である。この事例は、中世の重要な建物の地下には巨大な汚水貯蔵空間が存在したことを証明しており、後世の人々が城の地下に発見した「不快な穴」を、拷問部屋と誤認する素地が十分にあったことを示唆している。
ヴィオレ=ル=デュクが残した図面と注釈は、全く異なる解釈を提示している。彼が描いたバスティーユの地下室の断面図は、逆円錐形の底を持ち、二重扉や断熱構造を備えていた。ヴィオレ=ル=デュク(あるいはその注釈者)は、この構造が「氷室(Ice House)」の特徴と一致すると指摘している。電気冷蔵庫のない時代、冬場に切り出した氷を夏まで保存するためには、地下深くの断熱された空間が必要であった。逆円錐形の床は、溶けた水を中央に集めるための構造だった。二重扉や断熱構造は、冷気を逃がさないための工夫だった。バスティーユの「ウーブリエット」に見られる、水はけを良くするためのすり鉢状の床や、冷気を逃がさないための複雑な入り口は、人間を苦しめるためではなく、氷を溶かさないための熱力学的な工夫であった可能性が高い。つまり、ヴィクトル・ユーゴーが「人間を苦しめるために設計された完璧な装置」と描写したその構造は、実は氷を保存するための実用的な設備だったのだ。
リープ城の「荷車3台分の人骨」と「スパイク」についても、センセーショナリズムを排した検証が必要である。1922年の発見に関する一次資料(公式な発掘報告書や検視記録)は存在しない。情報の多くは口伝や、後の城主による証言に基づいている。つまり、その衝撃的な「発見」を裏付ける確かな証拠は、実は存在しないのだ。150体分もの人骨が、狭いボトルネック型の地下室に収容可能であったかという物理的な疑問に加え、骨の正体についても再考の余地がある。中世の城では、調理後の動物の骨やゴミを投棄する場所(midden)が城内に設けられることが一般的であった。数世紀にわたって蓄積された動物の骨が、暗闇の中での発見時の混乱や、恐怖による予断によって「人骨」と誤認された可能性は否定できない。あるいは、城が古代の祭儀場や墓地の上に建てられていた場合、地下構造物が偶然その遺構を貫いてしまった可能性もある。ウーブリエットの底に設置されたという「拷問用スパイク」は、歴史的遺物としては極めて疑わしい存在である。「鉄の処女」との類似性からも、スパイク付きの拷問器具というイメージは、19世紀に捏造された「鉄の処女(Iron Maiden)」の影響を色濃く受けている。中世の実在の拷問は、自白を引き出すための「尋問(RackやThumbscrewなど)」が主であり、即死もさせず自白も取れない「穴底のスパイク」は、処刑装置としても拷問装置としても合理的ではない。リープ城のスパイクが仮に実在したとしても、それは崩落した屋根の梁や、古い建築資材の木片が突き刺さっている様子を、恐怖心から「処刑用スパイク」と解釈した誤認である可能性が高い。ミルドレッド・ダービーのゴシック小説的創作の影響も無視できない。
イングランド北部のアルンウィック城やコッカーマス城に見られる、天井のハッチからのみアクセス可能な地下室についても、再評価が進んでいる。これらの部屋には、長期監禁に不可欠なトイレ設備(latrine)が存在しない。中世の基準であっても、排泄設備のない部屋に人間を長期間閉じ込めることは、衛生上のリスク(城全体への疫病の拡散など)が高すぎるため、現実的ではない。むしろ、これらの部屋は出入り口を限定することでセキュリティを高めた「金庫室(Strong Room)」や、食料・武器の保管庫であったと考えられる。ハッチからの出し入れは不便であるが、頻繁に出し入れする必要のない貴重品や備蓄品の保管には最適であった。
建築的証拠が「ウーブリエット=トイレ・倉庫説」を支持しているにもかかわらず、なぜ恐怖の伝説はこれほどまでに強固に維持されているのか。そこには、近代以降の社会が要請する心理的・経済的なメカニズムが働いている。リープ城やワーウィック城にとって、「ウーブリエット」は極めて強力な観光資源である。そこが「中世のトイレ跡」であると正確に説明するよりも、「無数の人々が苦悶のうちに死んだ呪われた穴」として提示する方が、観光客の好奇心を刺激し、強い感情的体験(恐怖、スリル、安堵)を提供できる。ミルドレッド・ダービーの小説や現代の心霊番組は、この「物語の消費」を加速させる触媒として機能している。19世紀のロマン主義者たちは、自分たちの生きる「理性の時代」と対比させるために、中世を「野蛮で暗黒の時代」として再構築する必要があった。ウーブリエットは、封建領主の恣意的な権力と残虐性を象徴する舞台装置として、文学的に「発明」された側面が強い。心霊番組やオカルトサイトでの拡散により、この神話は集合的無意識に深く刻み込まれている。私たちは、過去を「野蛮な異界」として消費することで、現在の「文明」の優越性を確認したいのかもしれない。
ウーブリエットの闇の底にあるのは、中世の亡霊ではない。過去を「野蛮な異界」として消費しようとする現代人の欲望と、実用的な建築遺構を恐怖の物語で彩ろうとする想像力——それが、この神話の正体である。
「ウーブリエット」を巡る調査の結果、以下の結論が導き出される。第一に、伝承の過剰演出である。リープ城の「串刺しと大量の人骨」の伝説は、ゴシック作家による創作、内戦時の混乱、そして観光資源化のプロセスの中で、実態以上に劇化された現代の神話である可能性が高い。ワーウィック城の「心理的拷問の完璧な装置」としての解釈も、実は中世のトイレの排水溝を誤認したものであった。バスティーユの「人間を苦しめるために設計された完璧な装置」という解釈も、実は氷を保存するための実用的な設備を誤認したものであった。
第二に、建築的真実である。ウーブリエットと呼ばれる遺構の多くは、下水設備(ガードローブ)、氷室、または貴重品保管庫であった。これらは城郭の維持管理に必要な機能的空間であり、拷問を目的とした施設ではない。ワーウィック城の「極小空間」は排泄物処理のための配管スペース、バスティーユの「逆円錐形の床」は溶けた水を効率的に排水するための設計だったのである。
第三に、概念の近現代性である。「忘却の地下牢」という概念そのものが、18世紀以降の言語的混同とロマン主義文学によって確立されたものであり、中世の実像とは乖離している。
次に古城を訪れた時、その穴をどう見るだろうか。観光ガイドが語る「恐怖の物語」を信じるか、それとも、その背後にある歴史の真実を探求するか。歴史は書き換えられる。私たちが信じている「常識」の多くは、後世の解釈かもしれない。ウーブリエットの神話は、そのことを教えてくれる——真実と虚構の境界は、しばしば、私たちが想像するよりも曖昧なのだ。